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経験と教育
ジョン・デューイ

○再読。非言語コミュニケーションの観点で見ても面白いかも。

【第一章 伝統的教育対進歩主義教育】

・人間というものは、極端な対立を持って、物事を考えがちである。このような考え方は、中間的なものがあるという可能性を一切認めようとはせずに、「あれかこれか」という見地からの信念が定式化されたものである。

・新教育とか進歩主義教育と呼ばれるものの発生は、それ自体が伝統的教育に対する不満の所産である。(中略)伝統的教育を図式化すると、その本質は上からの、また外部からの罰としての課題を押し付けるということになる。

・自由という理念に基礎をおくべきであると自認する教育哲学も、それに反対する伝統的教育が、かつて常に独断的であったことに劣らず、自由な教育哲学もまた独断的なものになりうる。

・どうすれば年少者は、過去の知識が現在の生活を理解するうえでの仲介者になるような仕方で、過去を親しく知るようになるだろうか、という問題である。

○これ!と決めつける危険性。曖昧さは時には大事なことなのかも。非言語コミュニケーションに例えるなら、「言わなくてもわかるでしょ」という曖昧さ?

【第二章 経験についての理論の必要】

・経験主義の意味を知るために、われわれは経験とは何であるかについて理解する必要がある。

・教育的ではない経験だっていくらでもあるのである。

・何よりも重要なことは、もたれる経験の「質」にかかっているのである。

・質的経験を整えることこそ、教育者に課せられた仕事なのである。

○経験から導き出されるのが非言語コミュニケーション。無駄な経験はないと思っていますが、それは「無駄にしない」ことが大事だな、とあらためての発見です。

【第三章 経験の基準】

・習慣の基本的な特徴は、すべておこなわれ受け止められた経験が、それをおこない受け止めている当事者本人を修正する一方、その修正が他方ではそれを望もうが望むまいがにかかわらず、引き続き起こる後の経験の質に影響をおよぼすというのである。というのは、われわれが後の経験に入っていくのは、以前の人間とは幾分か異なった人間としてであるからである。

・経験の連続性の原理というものは、以前の過ぎ去った経験からなんらかのものを受け取り、その後にやってくる経験の質をなんらかの仕方で修正するという両方の経験すべてを意味するものである。

・教育者は、価値ある経験の形成に寄与するにちがいないすべてのものが引き出せるようにと存在している環境-自然的、社会的な-をどのように利用すべきであるか、そのことを知らなければならない。

・経験というものは、経験しつつある個人の内部で進行しているものに従属させられてこそはじめて真の経験であるといってよいのである。

・難点は、教育者が経験を創造するにさいしての他の要素、すなわち教育される者たちの能力や目的を考慮しなかったことにあった。

○伝統的教育者は、生徒の非言語を読み取らないからこそ、自分を押し付けてしまった、という見方。

【第四章 社会的統制】

・普通の善良な市民が、事実上社会的統制によく服従していること、そしてこの統制のかなりの部分が個人的自由の制限を含んでいることには気づいていないということである。

・規則はゲームの一部であるということである。規則はゲームの外にあるのではない、ということである。規則なくしては、ゲームは成り立たない。規則が異なれば、ゲームも異なる。ゲームが合理的に順調に進行しているかぎり、遊戯をしている者は、自分たちはゲームをしていると感じるだけで、外部からの規則による押しつけに服従しているなどとは思っていない。

・これらの規則は、伝統や先例により是認されているところである。おそらくゲームをしようとする者は、プロの試合を見ており、そのプロの先輩たちを熱心に見習うようになる。

○相手を好きだからこそ、真似る。ミラーリングの効果が教育にもつながる。

・個人的な能力と願望を動機として命令される行動と、集団すべての人の利害にかかわる関心の的である公平な行動との間の相違を感じないような子どもの数は少ない(たとえ、子どもたちがそれらの相違を明確にはできなく、知的原理に還元することができないとしても、大半の子どもはその相違を感じているのである)。(中略)子どもたちはお互い遊んでいるときこそ、その相違がよく分かり、それを学んでいるのである。

・子どもというものはその大半が本来的に「人づきあいがよい」のである。子どもにとって、孤立はおとなにとってよりもはるかに退屈なものである。

○子どもは非言語メッセージを敏感に感じ取る。社会生活の中で、非言語コミュニケーションを学んでいく。

・人類の歴史上さまざまな時代でのまたさまざまな地域での習慣について、われわれは知れば知るほど、行儀というものが時と場所によってどんなにか大きな違いをみせているかを学ぶのである。(中略)他者に対する挨拶の仕方に関する行儀について、なんらかの決まりをもっていないような集団は、いかなる時代やいかなる場所にも存在しない。因襲がとらせる特殊な形式は、なんら固定されたものでもなく、またその因襲は絶対的なものでもない。(中略)少なくとも因襲は摩擦を防ぎ、それを減らす潤滑油なのである。

○非言語コミュニケーションの中には、地理的な違いは結構あります。でも、「潤滑油」というのは間違いありませんね。

【第五章 自由の本性】

・強要された静粛や黙従というものは、生徒たちが自分たちの真の本性を明示するのを妨げることになる、そこで生徒たちは、人為的な画一性をみせることが強いられるのである。そのように強要された生徒たちは、ありのままの存在としてではなく、そのまえに見せかけで繕うことになる。

・教育の理想的な目的は、自制力の創造にある。

○自制した行動からにじみ出るのが非言語メッセージなのかも。

【第六章 目的の意味】

・正真な目的は通常初めには、
衝動から起こるものである。衝動の即時的な実行が邪魔されると、その障害により衝動は欲望に変換されることになる。(中略)目的には、衝動にはたらきかけることから生じる結果を見通すことが含意されている。結果の見通しには、知性の作用が含まれる。知性の作用には、第一に、客観的条件と環境とを観察することが求められる。

・われわれは以前からの多くの経験をもっており、それらを熟知している場合には、われわれはこれらの経験が何であったのかを思い出すために、立ち止まる必要はない。(中略)熟知していない場合には、心のなかで過去の経験を入念に調べることをしないでは、また過去の経験を反省して、そのなかに現在の経験に似ているものを見定めることによって、現在の状況において期待されうるものは何かについての判断力を形成していかないようでは、われわれは観察された条件の結果がどうなるか、それについて語ることはできない。

・知的な予想や結果というアイデアは、衝動や欲望を目的へと移行させていく動力を獲得するために、衝動や欲望と混ぜ合わされなければならない。

・自由は、目的が発展するさいに、知的な観察と判断とがはたらいているところに存在する(後略)。

○非言語コミュニケーションの目的。円滑な人間関係を築くための手段の一つ。すぐ口に出してしまうのが衝動。衝動をすぐに相手にぶつけると摩擦が増しかねない。まずは観察からはじめること。

【第七章 教材の進歩主義的組織化】

・学習の目的は将来にあって、そのための直接の教材は現在の経験にあるという健全な原理は、現在の経験が、いわば後方にさかのぼり伸びている程度に応じてのみ、有効にはたらくことができるのである。経験はまた、それが過去に拡大されていく程度だけしか、将来に拡大することができないのである。

○経験したことしか、非言語コミュニケーションも察知できませんね。

【第八章 経験-教育の手段と目的】

・学習者個人と社会との両方の目的を達成するための教育は、経験-それはいつでもある個人の実際の生活経験-に基礎づけられなければならないという原理を取り上げ、しかもその原理こそ堅実なものとみなしてきた。

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