ラディカル・オーラル・ヒストリー

ラディカル・オーラル・ヒストリー

保苅実

○中原淳先生のブログで紹介されてい、気になったので読んでみました。

私と同い年。

享年33才でしょうか。

我が家の長女が生まれるひと月前。

第一章 ケネディ大統領はアボリジニに出会ったか

○幻の出版記念パーティ。一度読み終わった後、再度読むと、感慨深いものがある章です。こんな短い時間に感想が変わる章に出会うのは初めてでした。

第二章 歴史をメンテナンスする

・かれらは、歩みよる。植民地主義の暴力を経験した人々とは、そういうものなのだろうか。ときには強制されるために、そうでなくてもあきらめ気味に、かれらは妥協し、歩みよる。

・ジミーじいさんは、手で土をすくうとそれを私に見せ、「君はこれを土だと思うだろうが、これは人なんだ」と念を押すように語った。彼はまた、「大地が正しい道を教えてくれる」と、何度も私に強調した。「それが何であっても、すべては大地からやってくる」-これがジミーじいさんの口ぐせである。

・あらゆる存在が大地によって生み出され、大地によって維持されている、ということである。私はこの「大地」が、一般にドリーミングと呼ばれている、アボリジニの神話体系、法概念、霊的世界観をもっとも集約したかたちで表現した概念であると考えている。、

・大地とはあらゆる生命と存在の起源であり、原因であり、理由である。これを説明するために、ジミーじいさんは、次の五つの用語を頻繁に使用した。「大地」、「ドリーミング」、「法」、「正しい道」、「歴史」である。

・「大地」、「ドリーミング」、「法」、「正しい道」、「歴史」は、相互に交換可能な用語でもある(後略)。

・グリンジの人々が「移動生活」をしているのは、かれらが家を持たずに放浪しているからでも、旅好きだからでもなく、「我が家」が巨大だからに他ならないのである。

・キリスト教の神が「言葉」によって世界を創造したのに対し、アボリジニのドリーミングは「移動」によって世界を創造したのである。

○<心は初めからなかった。「初めに言葉ありき」という聖書の文言はあてはまらない。初めに有機体があり、そこに動きが生じ、動きから心は生まれてきた。>

身体心理学。

第三章 キャプテン・クックについて

第四章 植民地主義の場所的倫理学

・ジミーじいさんは、白人(カリヤ)の法が倫理を欠いているのは、それが紙の上に書かれた法だからだと推察する。白人は紙の上に法を書き込むが、その法が気に入らなくなると、すぐに破り捨てて新しい法を作る。「白人の法は、毎年かわっちまう」。しかし、アボリジニ(グンビン)の法は、大地の法であるために、決して変更されることはない。「大地の上では、法は変わらない・・・それはいつだって、そこにある」。

・その後、何ヶ月もジミーじいさんとつきあってゆくにつれ、ジミーじいさんの「私にはわからない」は、じつのところ、白人の法がいかに大地の法から無縁で、不道徳性に満ちているのかを強調するときに繰り返す言語使用であり、必ずしも文字どおり「わからない」を意味しているわけではなかったのである。

第五章 ジャッキー・バンダマラ

第六章 ミノのオーラル・ヒストリー

第七章 歴史の限界とその向こう側の歴史

・「危険な歴史」を「間違った歴史」として排除することは、アカデミックな知の権力が世界に広がる多様な歴史時空を植民地化してゆく営み以外の何ものでもない。

・グリンジの歴史物語りは、あくまでもローカルな文脈において歴史の多元性と共奏を基礎に営まれ、相互的交渉関係のなかで立ち現れてくる(中略)。<歴史的真実>は、しばしば閉鎖的で排他的になる。しかし<歴史への真摯さ>は、他者に対して開かれている。

○真摯さ。こうありたいものです。

第八章 賛否両論・喧々諤々

著者によるあとがき

歴史は楽しくなくちゃいけない。そんな思いも、本書を書き進めながら、僕の身体をかけめぐっていた。ジミーじいさんをはじめ、グリンジの人々は、よく笑っていた。苦しかった植民地経験を語りながら、白人の不正義に怒りをあらわにしながら、それでも、歴史語りはどことなくユーモラスに、笑いを伴ってなされることが多かった。(中略)ほとんどの歴史はむしろその深刻さに特徴があるといってもいい。しかし、そこには、歴史であることそれ自体の楽しさがある。僕は、読者が、本書を真摯に、しかし同時に楽しみながら読んでくれることを望んでいる。

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