二宮金次郎とは何だったのか

小澤祥司

 

1章 二宮金次郎とはだれか

・功利的な起業家としての金次郎の姿は、明治中期以降金次郎が有名になってからほとんど語られることがなかった。後にこの頃の自分について自省している。

〇まずは稼いでから、というのはありますね。

 

2章 受け継がれる報徳思想

・遠州に報徳を伝えたのは相模国秦野の安居院庄七。(中略)生前の金次郎は彼をいかほども知らなかったはず。

〇これはすごいです。後に正式に認められるというのも本当にすごい!

・金次郎が手掛けてきたのはあくまでも上からの仕法。遠州ではそうではなく、農民のリーダーが中心だとはいえ、そこに藩主や武士は関わっていない。あくまで農民側の自発的な動き。異なる報徳運動。

 

3章 時代に翻弄される報徳運動

・(相馬仕法の継続及び全国への頒布という)富田高慶の希望を西郷隆盛を通じて、大蔵省の渋沢栄一や大隈重信に伝えるが、方針はあくまで仕法打ち切り。

・二宮金次郎は封建社会を変えようという革命家ではなく、あくまで体制の中でそれぞれが役割を果たし最大限の効力を発揮すると考えていた。(中略)報徳はもともと体制内における改革を前提。

 

4章 報徳運動のひろがり

・二宮金次郎の思想と仕法は「報徳」という一語をもって表される。これを広めたのは富田高慶。金次郎が「勤倹譲」としていた報徳仕法の考えを「至誠、勤労、分度、推譲」の4つにまとめ直したのも高慶だと考えられている。

・富田高慶の「報徳記」を下敷きに幸田露伴が著した「二宮尊徳翁」。少年少女向けのこの本は大いに売れ、一般大衆に知れ渡った。

・西郷隆盛の死によっていったんは潰えた相馬仕法の完遂と、報徳仕法を全国に押し広める希望を、品川弥次郎の進める信用組合に形を変えて実現できるかもしれないと考えたのではないか。

・(孫の)金一郎の講話。「報徳の教えが盛んになるにつれて、別の目的のために報徳を利用するものあり、報徳とは似ていても別物だというもの、あるいはまったく違ったものもある。こうした状況を考えると、報徳の事業を進める一方で、報徳教の研究も進めなければならない」。

 

5章 教育勅語とつくられた金次郎像

・フィクションであろうとそれが徳育にとって利用価値が高ければよく、修身教科書に描かれた金次郎とは、教育勅語の精神を仮託された「つくられたヒーロー」だった。

 

6章 国家主義の台頭ー戦争への道

・疲弊した地域を建て直そうとしてもそのために費やす予算が不足する政府にとって、体制や制度を批判せず、没落も繫栄も先祖や自らの行いの結果であると説き、農民や村落の自助・共助によって一家や村の建て直しに導こうとする二宮尊徳の考えや手法が好都合だった。

・国定教科書に描かれた金次郎と松陰をみると、在郷では孝行と忠誠を尽くしひたすら勤労と倹約に努め、ひとたびことが起これば国のために命を捨てるという、臣民足る日本人の姿がこの二人に集約されている。為政者にとって理想的な臣民を育てることこそが徳育の目的。

〇SNSの発達はそういうものを暴きやすくなっているのかも。

 

7章 民主主義者としての二宮金次郎

・天皇がGHQ・アメリカ政府によって日本の占領に不可欠と判断されたように、金次郎もまた新しい役割を与えられ敗戦後の日本に生き残ることに。金次郎は臣民として育つべき子どもの手本から、GHQのお墨付きによって民主主義者という新しい衣を得た。(中略)望ましい人間像としてつくられた。

 

おわりに

・時の政府・権力者が二宮金次郎を手本として示すような時代はどこか危うい。金次郎が明治・大正・昭和前期に、どのような意図をもって子どもたちに教えられたのかを問い直す必要。

 

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