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中動態の世界~意志と責任の考古学~

國分功一郎

 

第1章 能動と受動をめぐる問題

・現代の脳神経科学が解き明かしたところによれば、脳内で行為を行うための運動プログラムが作られた後で、その行為を行おうとする意志が意識の中に現れてくるのだという。

・脳内では、意志という主観的な経験に先立ち、無意識のうちに運動プログラムが進行している。

○行動する身体。

(中略)意志の現れがが感じられた後、脳内ではこの運動プログラムに従うとしたら身体や世界はどう動くのかが「内部モデル」に基づいてシュミレートされる(中略)。われわれは脳内でのシュミレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感じながら行為しているということだ。

○本当に存在しているのかわかりませんね。でも、リアルはそこにある。

・現在、脳神経科学やそれに影響を受けた分野では、行為における意志の役割に強い疑いの目が向けられている。

 

第2章 中動態という古名

 

・能動態とも受動態とも異なるもう一つの態が文法事項として存在していたという事実は、それを知らない者にとっては衝撃である。(中略)では、能動態と受動態という対立の外側にある中動態とは何なのか?

 

第5章 意志と選択

・われわれは記憶を、過去にかかわる精神的な器官と見なすことができる。それは過ぎ去ったものにかかわっているからである。ならば同じ意味で、われわれは未来にかかわる精神的な器官を考えることができるだろう。それが意志である。

・未来が未来として認められるためには、未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。始まりを司る能力、何ごとかを始める能力の存在が認められることになる。

・意志の概念は責任の概念と強く結びついている。(中略)何らかの行為を自らの意志で開始したと想定されるとき、その人はその行為の責任を問われるのである。

・意志を何ごとかを開始する能力として理解している。だからこそ、この言葉に基づいて責任を考えることができる。

 

第6章 言語の歴史

・現在の言語は、「お前の意志は?」と尋問してくるのだ。それはいわば。尋問する言語である。

 

第7章 中動態、放下、出来事―ハイデッガー、ドゥールズ

・ハイデッガーはつまり、意志することは忘れようとすることだと述べている。

・つまりハイデッガーはこう言っているのだ。意志することは考えまいとすることである、と。

○忘れて断絶してしまうことは良い未来につながらないような。

 

第8章 中動態と自由の哲学ースピノザ

・スピノザの言う神すなわち自然そのものを説明するにあたっては、中動態(内態)に対立する意味での能動態(外態)には出番がない。この世界には外がないのだから、その外で完遂する過程を示す態は必要ないのだ。

・罵詈雑言を浴びたらそのまま怒りに震えるとか、他人の高い能力やすぐれた実績を見たらそのままねたむといった、変状の画一的な出現を避けることがスピノザの『エチカ』では一つの大きな課題になっていると言ってもよい。

・【「能動と受動」から「自由と強制」へ】

 

第9章 ビリーたちの物語

・能動と受動の対立を疑問視するところから始まったこの探求は、中動態の検討を通じて行為や意志や責任といった概念の問い直しに向かうこととなった。

・完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。

○ここでプロローグに戻り再確認。アルコール依存症の対話シーン。自由と強制の意味がおぼろげながら感じられます。物事の見方を変えるのは難しいですが、変えようとする柔軟さも必要かも。

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