暇と退屈の倫理学
暇と退屈の倫理学-増補新版-
國分功一郎
第1章 暇と退屈の原理論
・人間は部屋にじっとしていられず、必ず気晴らしを求める。退屈というのは人間が決して振り払うことのできない「病」である。
・パスカルの言う惨めな人間、退屈に耐えられない人間とは、苦しみを求める人間のことに他ならない。
・苦しむことは苦しいが、自分を行為に駆り立ててくれる動機がないこと、それはもっと苦しい。何をしてよいのか分からないということの「退屈」の苦しみから逃れられるなら、人は喜んで苦しむ。
・退屈している人間が求めているのは楽しいことではなく、興奮できること。今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わない。
第2章 暇と退屈の系譜学
・「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきたのである」。いわゆる「文明」の発生である。
第3章 暇と退屈の経済史
・定住革命は暇という客観的条件を人間に与えた。それによって人間は、退屈という主観的状態に陥った。
・かつての有閑階級は、暇の中で退屈せずに生きる術を知っていた。「暇と退屈の倫理学」にとって極めて重要な存在。彼らにおいては暇と退屈が結びつかない。だからこそ「品位溢れる閑暇」という伝統が存在。
・フォードは工場の外に出た労働者を徹底的に監視・管理した。(中略)労働は言わば、工場の外へも「休暇」という形で続くように。余暇は資本の論理の中にがっちりと組み込まれている。
・イタリアの哲学者、アントニオ・グラムシは、禁酒法とフォーディズムの関係に注目。(中略)アルコールがなくなれば、労働者は帰宅後も休暇中も、資本にとって都合のよい過ごし方をする。労働の合理化。
〇これは知りませんでした。(アルコール燃料産業を潰すための石油産業界の陰謀という話もありますが・・・)労働者に良い顔をしていたばかりでは、やはりない。
第4章 暇と退屈の疎外感
・ルソーの「自然状態論」。自然人は善良であるというより、邪悪なことができないし、する必要がない。(中略)自然状態を「かつて人間がいた状態や戻っていける状態やこれからたどり着ける状態として描いているのでもない。
・ルソーの自然状態は、社会状態を相対的に位置づけるための概念や、自己愛と利己愛を区別するための概念。(中略)経済学が完全競争をモデルにして話始めることに似ている。完全競争は純粋に理論的はフィクション。
・一般的な疎外論が本来性への強い志向を持つのに対し、彼ら(ルソー、マルクス)は本来性を想定することなく、疎外からの脱却を目指していた。本来性的なものを想定しない疎外論の方がむしろ正統派である。
〇論文などは都合よく曲解されたり、勘違いしたりということが起こる、と。
・「疎外」という言葉で名指すべき現象から目を背けないことを目指すのが「暇と退屈の倫理学」。
・ボードリヤールは消費と浪費を区別することで、消費社会がもたらした「現代の阻害」について考えた。
〇「消費」は満たされず、肥大していく。「浪費」は贅沢だがどこかで満たされる、と。
第5章 暇と退屈の哲学
・物が言うことを聴いてくれないために、「空虚放置」され、そこにぐずつく時間による「引きとめ」が発生。退屈の第一形式「何かによって退屈させられること」。(中略)ある物とそれに接する人間がいるとして、両者の間の時間のギャップによって第一形式の退屈が生じる。
・退屈の第二形式「何かに際して退屈すること」にも「空虚放置」と「引きとめ」が見出される。自分の中で空虚が生育する。
・退屈の第三形式「なんとなく退屈だ」の中で、人間は自分の可能性を示される。その可能性とは「自由」とハイデッガー。(中略)「退屈はお前に自由を教えている。だから、決断せよ」。ハイデッガーの退屈論の結論。
第6章 暇と退屈の人間学
・エストニアの理論生物学者、ヤーコブ・フォン・ユクスキュル。「環世界」という概念。「全ての生物は別々の時間と空間を生きている」。
・人間にとっての瞬間とは18分の1秒(約0.056秒)とユクスキュル。(中略)18分の1秒以内で起こることは人間には感覚できない。人間にとって18分の1秒とは、それ以上分割できない最小の時間。視覚のみならず、聴覚、触覚も。(中略)生物によって「瞬間の長さ」は異なる。
〇昔のアニメ、みつばちマーヤやみなしごハッチでは、人間がとても遅く描かれていたのを思い出します。
・環世界論から見出される人間と動物の差異とは、その他の動物に比べて極めて高い環世界移動能力を持っていること。動物に比べて比較的容易に環世界を移動。
〇学ぶからこそ。
・ハイデッガーの退屈論を書き換える。「人間は世界そのものを受け取ることができるから退屈するのではなく、環世界を相当な自由度をもって移動できるから退屈する」。
〇集中し続けるのが難しいということ。
第7章 暇と退屈の倫理学
・哲学者のセーレン・キルケゴールは「決断の瞬間とは一つの狂気である」と。決断は人を盲目に。「狂気」が必要な場面はあるが、ハイデッガーのように最初から決断の必要性を決めてかかると、本末転倒の事態が現れざるを得ない。
・「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂うが、実際は「心地よい奴隷状態」に他ならない。
・第一形式において人間は日常の仕事の奴隷になっていると言われるが、もしかしたら、その仕事を決断によって選び取ったのかもしれない。
〇第三形式と第一形式のサーキット。
・第二形式こそは、退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのもの。そこには「現存在(人間)のより大きな均整と安定」が。
・人間は、考えないですむような習慣を創造し、環世界を獲得する。生きていく中でものを考えなくなっていくのは必然。
・人間は気晴らしと退屈が入り混じった「退屈の第二形式」を概ね生きている。習慣を作らねば生きていけないが、必ず退屈する。退屈をなんとなくごまかせるような気晴らしを行う。
・人間であるとは、概ね第二形式の退屈を生きること、時たま、第三形式=第一形式に逃げてまた戻ってくること。(中略)人類は退屈と向き合って生きていくための手段をさまざまに開発。発展させ、享受することができる。
〇退屈からの発展。ゴルフの成り立ちは貴族の究極の暇つぶしからと聞いたことがあります(笑)。
結論
・イギリスの哲学者、バートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセルが「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」と述べることの前提は、楽しむためには準備が不可欠だということ、楽しめるようになるには訓練が必要だということ。
・贅沢を取り戻すとは、退屈の第二形式の中の気晴らしを存分に享受することであり、人間であることを楽しむことである。第二形式はハイデッガーの実に優れた発見。
・第二形式という概念を使用して消費社会を定義すると、「退屈の第二形式を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会」だと言える。
付録 傷と運命
・常に「サリエント」な状況に置かれ、落ち着いた時間を過ごせずに生きてきた人は、諸処のサリエンシーに慣れることが困難であり、何もすることがないとすぐに苦しく。サリエンシーに慣れる時間と余裕を持っていた人は、何もしない時間を休暇として比較的長く快適に過ごせるだろう。
〇心を傷つけるのも人、癒やすのも人。最初から「安心」与えることができていたのであれば、親としてこんなに嬉しいことはないのだと思います。
・退屈とは「悲しい」とか「嬉しい」などと同様の一定の感情ではなく、何らかの不快から逃げたいのに逃げられない、というような心的状況を指す。退屈を感情としてではなく「空虚放置」と「引きとめ」という動作的要素を持って定義したハイデッガーの論の妥当性をあらためて確証。
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