「空気」の研究
「空気」の研究
山本七平
「空気」の研究
・日本には「抗空気罪」があり、反すると最も軽くて「村八分」刑に処せられる。
・空気(ムード)がすべてを制御し統制し、強力な規範となって各人の口を封じてしまう現象は、昔と変わりない。
・論理の積み重ねで説明できないことが「空気」と呼ばれている。論理的判断の基準と、空気的判断の基準の「二重基準(ダブルスタンダード)」の元に生きている。通常口にするのは論理的判断基準だが、本当の決断の基本は「空気が許さない」という空気的判断の基準。大和の出撃。
・物質から何らかの心理的・宗教的影響を受ける、物質の背後に何かが臨在していると感じて知らずのうちに影響を受けるという状態(後略)。
・臨在感の支配により人間が言論・行動等を規定される第一歩は、対象の臨在感的な把握に始まり、これは感情移入を前提とする。(中略)感情移入の日常化・無意識化乃至は生活化、(中略)日本的世界。
・日本の新聞には、一世紀に近い、この種の記事を創作する伝統があると見なければいけない。
○日本に限らずでしょうが、本当の様でデマもある、真実を見極める力が必要だと。
・空気支配の問題克服の要点二つ、「臨在感を歴史感的に把握し直す」「対立概念による対象把握」。
・日本における多数決は「議場・飲み屋・二重方式」とでもいうべき「二空気支配方法」とり、議場と飲み屋の多数決を合計し、決議人員を二倍としてその多数で決定すれば、最も正しい多数決ができるのでは。
○本音と建て前。言える空気といけない空気。職場の風通しの良さに繋がります。
「水=通常正」の研究
・ある一言が「水を差す」と、一瞬にしてその場の「空気」が崩壊。その場合の「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、それを口にすることによって即座に人々を現実に引き戻すことを意味している。
・「水」は、自己の「情況」を語るに過ぎない。その一言で自己の「通常性」に。「水」の連続、「雨」いわば「現実」。降り続く「現実雨」に「水を差し」続けられることにより、現実を保持。これがないと「空気」決定だけに。
・「全体空気拘束主義者」は「水を差す者」を罵言で沈黙させる。
○「水」を辛辣に捉えるのは嫌なものかもしれませんが、これを上手にすることが「フィードバック」なのだと思います。
・空気を創出しているものも結局は「水=通常性」であり、空気と水の相互的呪縛から脱却できないでおり、この呪縛の中には固定的規範は入りえない。
・日本的儒教思想と中国思想は根本的に違う。「父と子の倫理」は文字通り父子の倫理。孔子は、同時代の諸侯に対し、そういう態度は取っていない。
・「君君足らずんば、臣臣足らず」という信義誠実を基にした契約的な意味の誠実さが「忠」という概念。血縁という非契約的な秩序の基本である「孝」とは別概念。同一視すれば、とんでもない社会を招来してしまうと(孔子は)考えたはず。
・父子の倫理を拡大してこれを儒教と呼べば、彼自身が激怒し、反対したかも。「日本的儒教」。
・「空気」と「水」と「自由」の関係。「水を差す自由」がなかったために、日本は破滅を招いたという反省。
・「水」とは言わば「現実」であり、現実とは我々が生きている「通常性」であり、通常性が「空気」の醸成の基であることを忘れてしまう。日本の通常性とは、個人の自由という概念を許さない「父と子の隠し合い」の世界であり、集団内の状況倫理による私的信義絶対の世界になっていく。
・「空気」も「水」も、情況論理と情況倫理の日本的世界で生まれてきた我々の精神生活の「糧」と言える。(中略)「空気」と「水」なしには、我々の精神は生きてくことはできない。
・戦争直後、「自由」について語った多くの言葉は結局「いつでも水が差せる自由」を行使し得る「空気」を醸成することに専念。その「空気」にも「水」が差せることは忘れているという点で、結局は空気と水しかない。
日本的根本主義について
・描写も図表も一つの思想を伝達しており、ある図相がどのような思想を伝達したかを研究する「図象学(イコノグラフィー)」という学問もあり、黙示文学もこの観点から「言葉にする連続的な映像の積み重ねによる思想の伝達方法」として研究するべき。
・人は論理的説得では心的態度を変えない。特に画像、映像、言葉の映像化による対象の臨在感的把握が絶対化される日本においては、それは不可能。
○マーケティングに繋がるのかもしれません。
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