善の研究

善の研究

西田幾多郎

第1編 純粋経験

・例えば一生懸命に断崖を攀ずる場合の如き、音楽家が熟練した曲を奏するときの如き(主客身分の状態に注意を転じていくことができる)。(中略)これらの精神現象は始終物に向けられ、前の作用が自ら後者を惹起しその間に思惟を入るべき少しの亀裂もない。

・判断が漸々に訓練され、その統一が厳密となった時には全く純粋経験の形となる。例えば技芸を習う場合に、始めは意識的であった事もこれに熟するに従って無意識となる。

・プラトン、スピノザの哲学の如きすべて偉大なる思想の背後には大なる直覚が働いている。思想において天才の直覚も、普通の思惟もただ量において異なるので、質において異なるのではない。

○千野帽子さんが言っていた、チクセントミハイに近いというところはこのあたりでしょうか。

第2編 実在

・同一の景色でも自分の心持ちに由って鮮明に美しく見ゆることもあれば、陰鬱にして、悲しく見ゆることもある。(中略)つまり我々の世は我々の情意を本として組み立てられたもの。

・ある芸術の修練についても、一々の動作を意識している間は未だ真に生きた芸術ではない、無意識の状態に至って始めて生きた芸術となる。

第3編 善

・人を殺すという意思も、人を助くるの意志も皆或る必然の原因有りて起こり、また必然の結果を生ずる。この点においては両者少しも優劣がない。ただここに良心の要求とか、または生活の欲望という如き標準があって、始めてこの両行為の間に大なる優劣の際を生ずる。

・我々は生きるために食うという、しかしこの生きるためというのは後より加えたる説明であり、食欲はかかる理由より起こったのではない。小児が始めて乳を飲むのもかかる理由ではなく、ただ飲むために飲む。我々の欲望或いは要求はただにかくの如き説明しうべからざる直接経験の事実であるのみならず、かえって我々がこれに由って実在の真意を理解する秘鑰。

・余は自己の本分を忘れ徒らに他のために奔走した人よりも、能く自分の本色を発揮した人が偉大であると思う。

・個人的善というのは私利私欲という事とは異なっている。(中略)一社会の中にいる個人が各々充分に活動してその天分を発揮してこそ、始めて社会が進歩する。

○社会の一員として感じられる場をつくること。

第4編 宗教

・神においては凡てが現在。時は神に由りて造られ神は時を超越するが故に神は永久の今においてある。この故に神には反省なく、記憶なく、希望なく、従って特別なる自己の意識はない。凡てが自己であって自己の外に物なきが故に自己の意識はない。

・今日我々が罪悪と称する所の者もある時代においての道徳だった。(中略)もの其物において本来悪なるものがあるのではない、悪は実在体系の矛盾衝突より起こる。

・我々が自己の好む所に熱中する時はほとんど無意識である。自己を忘れただ自己以上の不可思議力が独り堂々として働いている。この時が主も客もなく、真の主客合一である。この時が知即愛、愛即知である。

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