ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考

ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考

古田徹也

§1 事実の総体としての世界、可能性の総体としての論理空間

・ウィトゲンシュタインの言う「論理空間」とは、我々に想定しうるだけの可能性が目一杯寄せ集められた、もっとも広い空間のこと。(中略)蓋然性がどれほど低く荒唐無稽なことであろうと、物理的には不可能なことでも、意味を成してさえすればそれらは全てもっとも広い空間に含まれる。

§5 像と写像形式

・何らかの言語を取得さえしていれば、鉄道模型やレゴブロックなどかさばるものを持ち運ぶ必要はないし、それらを用いるよりも遥かに複雑な事態を自在に描き出すことができる。

§7 思考と像、像と論理空間

・言語を用いて命題をこしらえざるを得ない。思考と言語は切っても切り離せない関係ゆえに、語り得ることの限界がそのまま思考し得ることの限界に直結する。

§16 命題の意味の確定性と、命題の無限の算出可能性

・既存の表現を用いて、配列を並べ替え、新しい組み合わせ方を産み出すことで、日々、世界初の命題を生産し続けている。

〇言葉を紡ぎだすというのは不思議で神秘的だなとあらためて思います。

§23 命題の一般形式①

・「事実はしかじかである」というのが、命題の一般形式。

§24 推論的関係と因果的関係

・因果連鎖を何らかの必然的な関係だと信じるとすれば、言うなれば「迷信に囚われること」に等しい。(中略)因果連鎖が必然的な関係ではないからこそ、自分がこれから何をするかは自分の意志で自由に決められると言い得る余地がある。必然的であり得るのは論理的必然性のみであり、その意味で因果連鎖は偶然的な関係。

〇起業を邪魔するモノたちの言い分はここにありそう。やったことがないモノが「そんなの無理だよ」と。

§28 独我論と哲学的自我

・思考できないことを我々は思考できない。それゆえ、思考できないことを我々は語ることもできない。

・何かが存在すること、何らかの事態が成立していることは、そのことが誰かによって見られていること、知覚されていることと不可分。「存在するとは、誰かによって知覚されることである」という観念論の蓋が開く。知覚しているその「誰か」とはまさしく自分だと考えるとき、観念論は特に独我論という形態をとる。

・観念論は必ずしも独我論と同じものではない。「人知原理論」においては、知覚している主体は根源的には、自我ではなく神。

§34 投げ棄てるべき梯子としての「論考」

・『論考』の完成により、哲学病の医師としてやれることはやったと、出版と前後してウィトゲンシュタインは大学を去り、学問としての哲学とは無縁の環境の中で、地に足の着いた生活を送ろうとした。

・語りえないことについては、沈黙しなければならない。

・後期ウィトゲンシュタインは、「世界にはア・プリオリな秩序が存在する」「『身体』や『自然』への眼差しが欠けている点」などを自ら批判したのでは。

〇論理の鉄人ながら、現場を大事にする。偉大な哲学者、と陳腐な表現しかできないし、100分の一も理解していないだろうけど、感銘を受けました。

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