脳の闇
脳の闇
中野信子
第1章 承認欲求と不安
・変動感覚スケジュール。実験動物に対して条件付けを行うタイミングを等間隔にせず不規則にするとより中毒的に。
・脳が恋愛のさなかにあるときは究極の人権無視へと容易に移行しやすい状況。(中略)自分の愛している相手の生殺与奪権を握っているという感覚の中毒性は、相手が死んでもなお自らの異常性に気づくことができなくなるほど恐ろしい。
・人間の脳に備え付けられた不安というアンテナは、大きな、確実なリスクを検出することができなければ、その感度を上げて本来ならリスクにはなり得ないようなことをわざわざ拾い上げてしまう。
第2章 脳は、自由を奪う
・ブランドや権威を認知することによって選好が変わることは重要な脳の働きの一つ。「社会脳」の領域の一部。誰かの思いを無意識的に察し、自分の好みにすら蓋をして、考えを曲げ、ブレて、迷う。
・脳は怠けたがる臓器。人間が身体全体で消費する酸素量のおよそ4分の1を使用するため、本能的に脳の活動量を抑えて負荷を低くしようとする。「疑う」「慣れた考え方を捨てる」といった場面では大きな負荷。自分で考えず誰かからの命令にそのまま従おうとするのは脳の本質。
・「高学歴」「キャリアが派手」な人は強い自信を持っており、専門外のことについては特に知識があるわけでもないのに他者の冷静な意見を受け入れない傾向。
・論理的な判断に基づく算法「アルゴリズム」に対し、特定的なイメージの塊が確信的文脈にまで至る過程で役割を果たすのが「ヒューリスティック処理」。チャンスレベル以上の確率で正しい結果を導くことができるとされる。
・シンプルな言葉で分かりやすく仕上がっているだけの、内容をよく読めば論理的には破綻しているでたらめな理屈を性急に受け入れてしまう。思考停止させてくれる何者かを常に求め「わかったこと」にしたがる。
○楽に流れないように自生するのは大変です。
・自由である、ということは人間にとっての「認知負荷」。「しんどい」「面倒くさい」と知覚。(中略)誰かに決めてもらった方が楽だと本心では思っている。
第3章 正義中毒
・制裁を加えても自分の利益にならないどころか、返り討ちに遭う可能性すらあるにもかかわらず、なぜ攻撃するのかという問題。正義の味方として、皆のルールから逸脱した誰かを見つけて制裁を加えるだけで快楽物質ドーパミンが分泌される。手軽なエンタメ。
・裏切り者を排除し、皆が生き延びられるように脳に植え付けられた必要悪が「正義を執行する快楽」。利己的な行動はきわめて合理性の高いものだが、対照的に、集団を守るための正義はほとんど古臭い道徳とセットであり、非合理性の権化のよう。
・共感性や良心などの前頭前皮質の一部が担当している機能は他と比べて麻痺しやすく、状況が整えばないがしろにしてしまう恐れ。
・他人を糾弾することは自省よりもたやすいから、「正義」を執行する行為に相当させて快楽に酔い、人間であることを捨ててしまうという陥穽に落ちていく後ろ暗い悦びを味わうことも。
・他者に「正義の制裁」を加える快楽にハマると、罰する対象を常に探し求め、決して人を許せないように。
・正義中毒を乗り越えるカギは前頭前野の重要な機能であるメタ認知。前頭前野は成人になってからも成熟に時間がかかる部分であり、かつ加齢に伴って委縮しやすい部分。簡単に誰かをつるし上げるような風潮に自分の思考を乗っ取られやすい人は、前頭前野が衰え始めている可能性も。
第4章 健康という病
第5章 ポジティブとネガティブのあいだ
・ナルシシストと自己肯定感。自己を愛するうえで、誰かと比べずにはそうできない人と、比べることなしにできるのとでは、周囲とのコミュニケーションの様式は変わる。比較することなく自己の美を認めることが可能なら、自分にとって力と態度の余裕をもたらす。
・バーバラ・ヘルドは、前向きな姿勢を強要されることによって、心理的な回復を妨げてしまうと指摘。落ち込んでいること自体が落伍者である証拠のように受け止められ楽観的になれないものは劣った人間だというメッセージを暗に与えてしまう。(中略)ポジティブな言葉を使うことで逆に自信を喪失するケースも。
○人それぞれに合った解決策があります。
第6章 やっかいな「私」
第7章 女であるということ
・銃を手にするだけで男性の唾液中のテストステロン濃度が100倍に上昇。筋トレや闘争、不倫、高級スポーツ化に乗るなどでも分泌が促進。
・女には二つの選択肢。女であることを感じさせないように生きる回避的方法と、テストステロンが充満している男たちの女への視線を利用する戦略。
第8章 言語と時間について
・相手を妬み引き摺り下ろしたいという気持ちをどうにかして相手に伝わるようにしてしまえば、それだけで相手のダメージに。ブードゥー今日の呪いはこのメカニズムを応用したもの。
・コミュニケーション力は、単なる言語の運用能力(+それに付随する振る舞いのテンプレ)のこと。そこさえハックすれば、コミュニケーション力がある、と思ってもらえるということ。
・言語の運用能力とはあらゆる場面で重要。学校で教える国語だけでは不十分で他にトレーニングが必要。(中略)そこそこの数の人が、勉強はダメだがコミュニケーション力は優れていると信じ、ほとんど何の努力もせず、現在の自分の状態を振り返ることすらせずにそこに甘んじている。
○辛辣ですが、まさしく。だからコミュニケーション研修がある。
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