世阿弥の稽古哲学
世阿弥の稽古哲学
西平直
1章 伝書はいかなる視点から読まれてきたか
・「観客を化かす手練手管」を一座の後継者のために秘伝として残した「戦略」。禅が世阿弥に影響を与えたのではなく、仏教が世阿弥において芸術に。
・慎重に工夫された稽古こそが、舞台における即興的な動きを可能にするのではないか。
〇Zenk先生のReal Time DoingとLearning & Trainingとシンクロします。だからこそ、訓練されたビジネスマンが即興劇を学ぶことには意味があると思っています。
第3章 稽古の教えに秘められた智慧
・「目利き」と「目利かず」。(中略)観客に応じて上手の芸も下手な芸どちらも演じることができなければ、その時々の観客の気持ちを掴むことができない。
・下位の芸は表現しやすく、本能的な荒々しい動きは演者の表現欲を満たしやすいからこそ、そこから稽古を開始してはいけない。
第4章 稽古開始以前の子ども
・物まねを学ぶ前に身体の「器」を広げておく。児姿の幽風を「保存して」おく器。歌と舞の二曲の中に保存し、その土台の上に、物まね芸を習い始める。
・全ての子どもが、自分の得意な動きを自分からやり始めることを必然的とみる。干渉せず、思い通りにやらせる方が良い。
〇観阿弥・世阿弥親子、というのは歴史で知っていましたが、親子間、一族間の優しいつながりが垣間見えるような気がします。
5章 稽古における型の問題(研究ノート)
・「形木」は、芸の成長を妨げる機能として(否定的な意味で)語られ、他方で、芸を支える基本原則として(肯定的な意味で)語られている。
・創造的であるために必要な「型」。創造性を妨げる固定的な鋳型でなく、「型」が舞台芸術における即興性を可能に。「型」の稽古が「即興性を可能にする身体」を作る。
6章 伝書における無心の厚み
・(操り人形の)糸が切れるとたちまち崩れ落ちる。その糸が能においては演者の「心」。この心を観客に見せないのは、操り糸を観客に見せないのと同じ。「心を糸にして、人に知られずして、万能をつなぐべし」。人形が「我心」であり、それを操る糸が「一心」。一心を観客に見せないが、削除するのではなく、「一心」になる。それが「無心の位」。
・観客もなく演者もないからこそ「感応」し合う。(中略)もはや観客など消え去った静寂な心の内面を語ったのでなく、あくまで観客と対峙する視点、演者と観客との二者関係において「無心の感」を語ろうとする。
・(花鏡の後に書かれた)「拾玉得花」の視点は、観客と対峙する切迫した舞台人のそれでなく、舞台を顧み、あるいは問いに答える仕方で省察を深めた哲学者(現象学者)のそれに近い。
第7章 伝書における二重の見
・「我見」という妄念を去って自己本来の姿を悟得するというメタファーに乗せて「離見の見」を解き明かす。「見所(観客)と同じ心になって、舞台で舞っている自姿を見ること。
・「離見」とは何よりも「我見から離れること」。「離見」の「離」を動詞として強く読み、「見」を我見と読む。「見(我見)から離れる」こと。意識の働きから離れるダイナミズム。
・観客の眼差しを(三方、あるいは四方から)浴びて、自己意識がいつにも増して高まらざるを得ない渦中において、いかに意識の呪縛から脱するかというのが「離見の見」という工夫。
・観客を「敵」と見るか「協力者」と見るかという異なる二つの地平が世阿弥の視線には常に絡み合っている。
・「見所同心」。演者と観客との区別なく一つの心に。「無心の感」。共に「心が働かない(個人の心の働きではない)」位相に。
〇役者時代に、数回感じられたかどうか。
・「離見の見」とは逆説の多層的な重なり。
補論 「二重写し」の二重、あるいは「移る堺」について
・対立と和合を二重写しに見る。静的な並存でなく、都度、交叉反転するダイナミズムを見る。対立を見るときは和合を前提にし、和合を見るときは対立を前提に。
・「堺」は流動的。「無心」を併せ持った工夫が「二重写し(二重の見)」。
8章 有主風と我意分
・役柄に特有の身体感覚に集中する。「体性感覚としての運動感覚」を創り出し(生じさせ)、全心身を集中させることによってはじめて役柄のイメージが感受される。
・我意分とは、名人の境地における演者の主体性。
9章 息と音楽性
・「機」は常に二重。心の働きであり身体運動。(中略)まず観客の「機」とし、演者は観客の「機」を見抜き、自らの「機」として受け取り、その「機」に合わせて謡いだす。
結び
・世阿弥は生涯「戦術」を求めた。部隊の工夫と一座の繁栄が脳裏から離れたことはない。求め願い狙い続けたが、作意が成就を妨げる。そこでもはや求めないとやってくる。狙いさえしなければ、結果はおのずと生ずるが。期待した途端流れが変わる。作為になったら「わが心をわれにも隠す」。無心に向かう。
・世阿弥の最大の智慧の一つは、人はその状態にとどまることができない、という点。無作為にとどまってなならず、無心に停滞してはならず、保存を求めてはならない。
・伝書の語る「師」は一方的な指導者でなく、ひたすら「真似る」ことを命じない。後代の思想的展開の中で「型」が強調され、師の権威が強調されても、伝書が語る稽古の師は、一方的に子どもを指導する強圧的な存在ではない。
・「すべき事をする」という「をのづから」、「をのづから」のような「すべき事」。
補章 世阿弥の還相
・「花鏡」は禅的体験や思考によって触発された演劇的思考の最高度の表現。
・「無心」は放心ではなく、修業をせずに至ることはできず、修業を極めた結果として至りえる。努力などすることのない境地に至るための努力を尽くした結果として、初めて生じる「努力しない安らか」。
〇休むために、学ぶ、という弊社の屋号に込めた思いがここに(笑)→Learn For the Rest!
・稽古を見る世阿弥の眼は常に「二重写し」。無心の境地と二重写しに「稚児」を観、無心の境地と二重写しに「技」を観ている。
・往相の眼は「観客」など相手にしないが、無心の境地から立ち戻り、「観客」を「観客」として観る。「『我』と『観客』との二者関係を問う地平」とを二重写しにしながら観客と向き合う「心の工夫」を解き明かす。還相の叡智。
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